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【バレエ】雑記帳(1) 導入としての「なぜ」

 なぜ、バレエを観るのだろう? 

 なにせチケット代が高い。演目やバレエ団や座席のよしあしに大きく左右されるが、大雑把に1万円前後かかる。安い席でも2000円くらい。まあ金持ちの道楽と思われる所以だ。王侯貴族ら特権階級のための愉しみ。王室、なかんずく皇室との寄り添い。スポンサーとしての権力とそれにおもねる権威主義。政治利用。白人至上主義。思い切り誤った「異国趣味」。持ち上げるように見せかけた差別意識。演目だけでなく、美意識そのものの白人化。ストーリーにおいても、ダンサーにおいても。異性愛と固定されたジェンダーに依拠した物語。王子様とお姫様の、結婚へいたる疑問のない道。越境されることのない、男と女。ストーリーにおいても、ダンサーにおいても。

 いちいち反論することはできなくはないが、「できなくはない」レベルのものでしかない。反論はできても否定はできない。「そうではないものがある」としたところで、「まったくその通り」なものを否定できない。それらを包含すると認識し、なおかつ私はバレエを観るのだから。しかも愛情をもって。反権力を掲げ、ダブル・ジェンダーを抱えながら。

 なぜ?

 端的に言えば現実逃避であり、エネルギーの再生産。しかし、それがなぜ「バレエ」でなければならなかったのか?

 自分でもわかりかねる「なぜ」に行き当たったのは、本格的に見始めて4年目、04年の秋。

 バレエへの復帰だった01年1月、マールイの「白鳥の湖」はまだ、きれい、すてき、うっとりといった思いだった。それだけでも十分にバレエを見続ける動機にはなったのだが、その年の夏、マールイにゲスト出演したルジマトフ(ちょうどキメキメの見得切り大王の末期の頃)に捉えられ、彼の腕の美しさに魅了される。腕、そう腕なのだ。あのどこまでも伸びてゆく、届かない何かをつかもうとする、あのアラベスクの腕。その先に何があるのか、その腕は何をつかむためにどこまで伸びていくのか。それを私は観たかった。

 そして04年の3月、首藤康之の最後の「ボレロ」を観るために出かけた東京バレエ団のガラ公演で、それまで名前もろくに覚えていなかった木村和夫に出会う。だが、彼に惹かれた意味は、かなりショックを受けた4月のヒラリオンを観てもまだわからなかった。それがようやく見えたのは8月のガラの「エチュード」のシルフの場、9月の「ドンキ」を経て、11月、再びのヒラリオンと「ジョルジュ・ドン日本最後のボレロ」DVD所収の「火の鳥」を観た時。

 あの、腕だ。私が欲しかったのは。

 木村和夫の腕の動きの美しさはそれまでも十分に、彼を観る動機ではあった。だが、美しさならそれこそルジマトフを筆頭に、彼以上のダンサーはたくさんいる(美しさなら、本当にルジマトフを超える腕はないと思う)。木村の踊るフェニックス。終曲、5回繰り返されるテーマの3回目と4回目、群から一歩出たフェニックスがまず下手に、次いで上手に向かう振りの3小節目、回転しながら跳んだ着地と同時に上体をかがめ、斜め前方に(のれんのように)揺れるように差し出す、腕。心の上をすうっと撫でていった、やさしい腕。弱冠20歳の彼の腕が進化して、11月のヒラリオンに結実していた。あの、限りなくやさしい、腕。

 それは木村を観る動機になっても、バレエそのものを観る動機ではないとも言えるのかも知れない。だが、あの腕を求めてバレエを見続けて来たようにも、それを探してこれからも見続けるようにも、思う。それが存在しうるのは、バレエという場をおいてないのだ。

 希望がなくても、世界が不条理でも、舞台だけは美しかった、と萩尾望都は言った(「青い鳥」)。そして「Do Da Dancin'!」(槇村さとる)の桜庭鯛子がジャズダンスに出会った時に「直接さわられた気がした」と言って泣いた、その揺さぶられ方。そんな出会いは滅多にあるものではないが、一度出会ってしまえば、そこここに落ちている片鱗を感じることはできる。

 ひとときの安らぎと、興奮と。私の生きてきた中でのバレエを、もう一度振り返りたいと思う。そこから「なぜ」は再び浮き上がって何かを見せるかも知れない。(05.4.4)

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