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【バレエ】雑記帳 (8)  甘たるく感傷的な歌

 ……または極私的ベジャール体験と「生きることはよい」

 どこから書けばよいだろうか。よくあるような不幸自慢はしても始まらない。そもそも自分の人生を「不幸」だと思っているわけではない。「幸福な子どもだった」とは口が裂けても言わないが、幸福でないことはすなわち不幸だということでもない。だが、ベジャールが追究し続けたテーマが「生と死」である以上、そして「感じる」ということが自らの経験に多くを負っている以上、いくつかの前提へ踏み込んでいかざるを得ないとは思う。

4歳違いの姉とちがって、どうやら自分は歓迎されなかったらしい、と思い始めたのはまだ5つか6つの頃だ。物心ついた頃から就職して家を出るまで、母の口癖は「子どもは一人しかいらなかった、二人目なんか作るつもりもなかったのに、あんたなんかがいるから(だからうちは貧乏だし、自分も働かなくてはならないし、私はとても不幸だ)」であった。もう少し年齢がいっていれば自分なりのフォローもできたのだろうが、未就学児には額面通り以外に受け取りようもなかった。それでも姉のように「従順な、いつも100点のいい子」でいられればまだしも、今でいうところの「育てにくい子」であった上に万年「85点選手」で、しかも鼻っ柱が強かった。殴られることも罵られることも慣れていた。学校でのイジメもあったが、学校に行かずに家にいることの方が恐ろしかった。

 小四の冬、破綻した。腕をつかまれて引きずりまわされながら、このまま死ぬんだな、と思った。いくらなんでもヤバイと思ったのか、父が「早くママに謝んなさい!」と叫んだ。両親と暮らした22年間で、自分が覚えているかぎりたった一度の父の介入だった。

 その年、クラスは完全に「崩壊」していて、授業はほとんど成立していなかった。「悪い人」をやっつけてくれる「正義の味方」はどこにもいない。自分をここからさらい出してくれる「王子さま」もどこにもいない。ならば自分が自分でそうなるしかないだろう。自分が自分の「王子さま」になろう。そうして自分は「男」になった。なってみれば拍子抜けするほどラクだった。

 それでもずっと考えてはいた。死にたいと思ったことはなかった。ただ存在することの根拠が欲しかった。自分が生まれたことになんの意味があるだろう? 親に望まれもしなかったのに?

 踊ることは好きだった。幼稚園のおゆうぎから始まって、体育のフォークダンスも創作ダンスも。踊りを観ることも好きだった。小学館の学年誌に必ず載っていたバレエ漫画も、テレビで放映されるバレエやフィギュアスケートも、ハリウッドのミュージカル映画も宝塚も。1981年、高校で希望者を募っての「バレエ観賞会」がもたれた。東京文化会館における、マールイ劇場バレエ団による「白鳥の湖」。初めて観た生のバレエは、ただただ美しかった。

 1982年、自分は高校生だった。「20世紀バレエ団」という妙に魅力的な名前を持つバレエ団の来日公演をNHKで放映するという。「エロスタナトス」という名のその演目には、あの「ボレロ」も入っているのだそうだ。「ボレロ」は小さい頃から大好きな曲だった。インテリ趣味の母のおかげで家には「親子で聞くクラシック」の類いのレコードが何種類もあったのだが、それらとは別に特別に好きだったのが「ボレロ」「春の祭典」など何曲かの入ったLPだった。

 うちはその頃、独立した2階部分を夜間だけ学習塾に使っていたので、じっとテレビを見ていられないことはよくあった。生徒さんからの電話がしょっちゅうかかってきたし、月謝を払いに来る生徒さんもいた。だからその放映も集中して見られたわけではない。ところどころ電話に出たり玄関に出たりしながら、とにかく見た。それでも十分に衝撃だった。

 今ではもう、そのインパクトの強さばかりが思い出される。場面ごとに上手から走ってきてスライディングする男。およそ自分の中の「バレエ」とはまるでちがった、エネルギッシュで暴力的ですらあるステージ。そして「ボレロ」。こんなバレエがあるとは思っていなかった。タイトルの通り、エロスとタナトスが、生と死と官能とか画面からあふれ出してくるような舞台。

 「愛と哀しみのボレロ」を見たのはその後のテレビ放映時だった。例によって出たり入ったりしながら見ていたこともあって、ストーリーがよく追えなかった。最後のボレロの場面は、ドンはもちろん美しかったが、ミルクのメロディの衝撃があまりにも強く、「メロディを男性が踊る」こと自体が受け入れ難かった(今では考えられないが)。さらに、ボレロのメロディラインをボーカルが取ることも納得し難かった。再びベジャールと出会うのは86年のこととなる。 

 その間も「生まれてきたことの意味」は自分を嘖み続けた。共学の中学に進学して「女性の役割」を押し付けられるのを恐れた自分は(ほかにも理由はいくつもあったが)、母の勧める中高一貫教育の女子校に進んだ。駅からの帰り道、多摩川へよく脚を伸ばした。広い土手の上に自転車を留め、座り込んで川を眺めた。子どものキャッチボールや、犬の「とってこい」、散歩する人々、光る水面、中洲にそよぐ葦。鳥の声、水の匂い、草いきれ。さまざまなものを含んで、頬を通り過ぎていく風。孤独だったが、不幸ではなかった。欠けていたのはただ、生きるための根拠だった。何かで一旗揚げなくてはならない。何か「名のある人」にならなくては、親の反対を押してまで生まれてきた意味がないのではないか?

 86年、ベジャールの新作がテレビ放映されるという。しかも題材は「忠臣蔵」で、踊るのは日本のバレエ団だ。自分は大学生になっていた。かなり懐疑的な目でその放映を見た。時代劇好きの目にはどこか違和感があったし(というよりも違和感を探そうとして見ていたのだろう)、由良之助のみが西洋人だというのは気に入らなかったが、しかし何よりも、討ち入りの場面に圧倒された。これだけの群舞を踊れる、しかも男性をこれだけそろえることのできる日本のバレエ団があるということ、さらにこのバレエ団にベジャールが信頼を寄せているということが、とにもかくにも衝撃だった。ベジャールと東京バレエ団の名前がひっそりと、胸の奥にしまい込まれた。

 「生きていたくない」と思うことは多々あったが、「死にたい」というほど積極的な思いではなかった。何人もの男性と出会っては別れたが、彼らはみな、背が高く比較的がっしりとした体つきか、あるいは自分より一回り以上年上だった。

 バレエを見に劇場まで行くようになったのは2001年から。高校の観賞会以来の初めの1本は、ル・リッシュとピエトラガラをゲストに迎えたマールイの「白鳥の湖」だった。それからたまに買うようになった「ダンスマガジン」で「首藤康之最後のボレロ」の広告を見て、「首藤康之」の「最後」の「ボレロ」なら行こう、と思った。首藤の名前をどこで覚えたのか、もう忘れてしまった。03年のボーン版「白鳥の湖」のお目当ては彼だったから(見られなかったけど)、その頃には既に興味のあるダンサーだったのだろう。04年の東京バレエ団40周年記念公演シリーズのひとつだった「ベジャールガラ」。そこで出会ったのは「首藤康之」ではなく「木村和夫」というダンサーだった。

 彼についてはもうさんざん書いてきたし、これからも書くだろう。いくつかの彼の舞台、いくつかのベジャールの作品を経て、若い頃の彼のフェニックスに出会い、自分が欲しかったものに気がついたことも既に書いた。緩やかに弧を描く長い腕。雄弁でやさしい指。だが、あの文章を書いた時点で、自分は自分が本当に欲しかったものはわかっていなかったのだと、今は思う。

 「生きることはよい、殺すことはない」。9.11の後、アフガン空爆、イラク戦争と続く中で掲げられたスローガンは、小泉義之の「弔いの哲学」によっている。より長い部分を引用すればこうだ。「〈生きることはよい〉。これがモラルの最低限の原則であり最高の原則である。モラルはこれだけで十分に足りる。そして必要ならば、ここから直ちに〈殺すことはない〉が出てくる。これら二つのことを、ここでは戒律と呼んでおく。この戒律を、〈神すなわち自然〉が定める〈掟〉と解してもよい」。

 ベジャールの作品を半分も観てはいないのだが、それでも彼のテーマは常に「エロスとタナトス」であったとは、それなりに広く言われていることでもある。「生の本能」と「死の本能」。本能はこの場合は情動と置き換えが可能であろうし、生はいうまでもなく性と言い換えることもできる。円卓の上のダンサーによって、「生」「性」「死」の間を行き交う「ボレロ」。世界の崩壊へ向かってひた走る「リング」。復活するものとさせるものを描く「火の鳥」。「春の祭典」が原初のエクスタシーならば、「ザ・カブキ」「M」は死のエクスタシーへの疾走であるし、「ギリシャの踊り」は生きることそのものの歓びだ。

 イラク戦争の頃からだろうか。自分の中に繰り返されるイメージがある。空に向かって高く両手を挙げる。胸を開き、目を閉じて、大きく息を吸い込むと、そのまま自分の想いが上昇気流に乗って上がっていく。それはただイメージでしかないが、その向こうに何かそういったものを受け止める場所があるような気がする。「ギリシャの踊り」のソロの最後、首藤が見上げた先に青空が見えたように思えた瞬間、それを思った。首藤とはまったくちがうベクトルでありながら、木村の踊りの中にも生と死、そして狂気への情動が色濃くある。自分は特定の宗教を信じているわけではないが、無神論者でもない。小泉の言う〈神すなわち自然〉のただ一つの〈掟〉、すなわち「生きることはよい」。首藤がソロをとり、木村がハサピコを踊り群舞を率いた「ギリシャ」は、そのような踊りだった。

 1966年のインディカ画廊で、オノ・ヨーコが発表し、ジョン・レノンと知り合うきっかけとなった「Ceiling Painting」は、観客がはしごを上って天井を虫眼鏡でのぞくと小さく「YES」と書いてあるというものだった。自分にとってのベジャールは「Ceiling Painting」だった。それを読むためのはしごと虫眼鏡が木村というダンサーだった。そんな風に自分は思い始めていた。シヴァコフがイノセントな「YES」であるなら、木村は内奥の葛藤の中から現れた「YES」だった。どちらも自分には必要だったのだ。

 いくつもの舞台が積み重ねられた。一度糸口を掴んでしまうと、あとは「自分の欲しいもの」を見いだすのはそれほど難しくはなかった。大体が人というものは、「自分の欲しいもの」を——それが実際にあろうがなかろうが——見いだすように見るものだ。木村ではないダンサーの踊るベジャールからも、ベジャールではないダンスを踊る木村からも、それは受けとることができた——毎回ではないにせよ。

 自分の欲しいもの。何よりも渇望していたもの。それは「生きるための根拠」——言い換えれば、自分が生きるということの正当性だった。それを自分は常に「他人からの許可」という形で求めていた。愛されること。高い評価を受けること。だが小泉のいう「生きることはよい」というテーゼは、それらよりもはるかに確固たるものだった。そこにはどんな例外もない。生きることはただそれだけでよいのだ。役に立とうが立つまいが、極悪人だろうが。そしてそれを貫くことは、およそ厳しく孤独だ。字面の甘さに反比例するかのような、極北。

 ベジャールの描き出す世界は、原則的に「YES」である、と自分は感じる。観る者を丸ごと包み込むような肯定感。生きる意味などはなくてもよい。生きることそのものが美しいのだ。「Ceiling Painting」と小泉義之とベジャールとが自分の中で重なり合ったのは、イレールとルグリによる「さすらう若者の歌」だった。その地点から振り返れば、「ペトルーシュカ」の「友人」に惹かれるのは当然のように思えた。疑念と混乱の中にあって、かの「友人」こそが信頼と友愛と生命とを体現しているのであるから。川面を渡って頬をなぜる風が、二つの作品には吹いている。

 そしてその頃、別のルートから自分が考えていたのは、幼い頃の自分と父のことだった。思考経過はこの際どうでもよい。自分が望んでいたのは母の優しさではなく、父の——腕ではなかったのか。自分が恨んでいたのは母ではなく、むしろ愛していたはずの父ではなかったのか。かばって欲しかった。甘えさせて欲しかった。「父の娘」でいたかった。果たせなかったそれらへの渇望を埋めるためだけに自分は生きてきたのだろうか? 自分の生きてきた時間はいったい何のためだったのか。自分の中で軽い混乱を起こしている最中に、ベジャールの訃報が入った。

 自分でも信じられないほどの大きな喪失感。泣いた後にやってきたのは穏やかな虚無だった。腕を伸ばした先にいるのはベジャールのような気がした。その腕の中で眠ることができたら、そして目覚めることなくいられるなら、それ以上の幸福があるだろうか? 眠りたかった。決して目覚めたくなかった。

 実際、かなりまずい状態だったのだ。

 それでも結局のところ、そこから抜け出せたのは直後に行われた東京バレエ団のギエムツアーによってであり、……ありていに言えば、木村と井脇の踊った「ステッピング・ストーンズ」だった。どれだけ思い入れがあろうと一介の観客にすぎない自分とは、比べ物にならないほどの想いがあるであろう二人の踊るキリアン——ベジャールではなく、キリアン——は、彼らの世界の厳しさと彼ら自身の強さ——そして「淀みなく流れる時」と生きるという営みをもう一度、自分に見せてくれた。

 生きることはよい。それは普遍の真理というよりも、むしろイデオロギーのひとつととらえるべきだろう。しかしそれが細胞のひとつひとつに染み込んでいくに従って、自分は、自由になった。理論でそれを伝えたのが小泉なら、体のすみずみまで浸透させていったのはベジャールだった。ベジャールと、それを踊るダンサーと。流れゆく川のように、川面を渡る風のように、自分を包み込んでくれるもの。

 生きることはよい。生きるための根拠も意味ももういらない。それらから解放されて、今、自分は生きている。声を揚げ高らかに歌おう。生きることはよい。
 
*学校でのイジメ 90点以上で当然(姉がそうだったからか)という親だったので、75点辺りだと「叱られる」と本気で困ったのだが、今にしてみれば「75点で出来が悪かったといって悩んでいるヤツ」を殴ってやりたいと思うのは「普通」だろうなぁと思う。学区の関係で越境入学者でもあったし、体育が苦手で勉強ができるという、まあ「イジメの条件」は整ってたよな、と妙な納得はするのだが。ついでにいえば、後に男子に反攻に打って出た結果、女子からは完全に干され、男子とコロコロと遊ぶ、というようになる。

*「男」になる 性的アイデンティティについても紆余曲折を経ているが、今のところ「後天的なFTX」くらいが妥当であろう。「FTM」は「女性から男性への転換」、「MTF」はその逆、「F/MTX」は、「女性/男性からどちらでもない(どちらでもある)ものへ」をいう。念のため。

*マールイ初来日 キャスト表によると、その回のオデットはキーロフのチェンチコワ、王子は同じくベレジノイ。別の日にはクナコワがゲスト出演。また劇場のソリストとしてアナトリー・シードロフ、ユーリ・ペトゥホフ、群舞でアンドレイ・ブレグバーゼが参加している。演目はボヤルチコフ版「白鳥の湖」とヴィノグラードフ版「ロミオとジュリエット」だったが、この時すでに現在の「マールイ並」のスケジュールであった(苦笑)。

*「ザ・カブキ」初演 最近、この時のビデオを見る機会があった。初演の力弥を木村が踊った話は有名だが、ちゃんと木村で放映されていた。いやー、カヴァエエ(^^)。判官切腹のシーンで画面からはずれているのが、返す返すも口おしい(←あそこがツボ)。

*「生きることはよい、殺すことはない」 このスローガンを主に掲げていたのは「靖国解体企画」と「戦争抵抗者の会」ではなかったかと思う。両者のメンバーがダブっていたこともあり、ちょっと記憶が曖昧だが。
*「声を揚げ、高らかに歌おう」 劇団「野戦の月」の舞台から。森美音子によるこのフレーズのリフレインと子どものように無邪気に舞台を踏みならすさまが、リューセイオー龍の踊りとともに、無性に心を捕える舞台だった。「私は声を揚げ、高らかに歌おう」だったかもしれないし、もう少し違ったかもしれない(←うろ覚え)。(2008.5.9)

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