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【バレエ】雑記帳(9) ベジャールの「鏡」

あるいは、「鏡」としての東京バレエ団

 ベジャール氏が亡くなってから、あるいは前回のBBLの来日公演から、ぼんやりと考えていたこと。それは、要するに「東バのベジャール」のことであり、「ベジャールにとっての東バ」ということなのだけれど。逆はね。「東バにとってのベジャール」はこのかんに限らずあれこれ語られているけれど、ではベジャール氏が「我が子」と呼んだ東京バレエ団とは何だったのか、と。

 自分なりの答えはもうずいぶん前に出ていたのだけど、なんとはなしにそれをまとめることは何かためらいがあって、ずるずると引き伸ばしてしまった。ファンとしては新参者だという自覚もあるし。ああ、これは地雷だよな、と(笑)。

 とはいえ、自分の言いたいことのおおかたは、ニコラのボレロの時のプログラムに新藤氏が書いている(もちろん自分よりも明瞭に)。
 なので、もう一つの鍵を。

 1990年、ジョルジュ・ドンの「最後のボレロ」としてDVDになった、あのツアーのプログラムに、溝下監督(当時)と、高岸さん、友佳理さんの鼎談が掲載されている。多くは再振付(5人の踊りから巫女とアメフトを加えた構成に)された「舞楽」についてだが、その中で「火の鳥」の復活上演(東京バレエ団初演)の後のベジャール氏の溝下監督への言葉が監督によって紹介されている。

 

「「火の鳥」の上演を中止したのは、この作品を荒々しくやって欲しくなかったから、クラシックのポジションを几帳面に守ったうえで上品にやって欲しかったからだ、って。それで、東京バレエ団と一緒に仕事をしたときに、この団体なら演出意図に従ってやってくれると感じた、信じていたんだって。今後も絶対にその基本を守ってくださいって…。」

 それで、すとん、と落ちた。だから、「火の鳥」は木村さんの「当たり役」なんだな。一時ダブルでキャストされていた大嶋さんの作風もそうだ(結局見られなかったけど (ノ_-。))。

 「ボレロ」と「春の祭典」が一時期東バにだけ許可されていたというのも、おそらくは「火の鳥」と同じ理由ではないか。

 というのは、この春に20世紀バレエ団の映像を見た時に思ったことだ。女性たちの、現在の目で見ると「むちむちプリン」な肉体によるそれは、「きゃあーー♪ 早く犯して、犯してぇえ♪」というイエイエガールの集団のように見えて、実のところぐったりしたんだが、本来的に「正しい『春の祭典』」とはそのようなものなのだろう。「ボレロ」が当初、ストリップから始まったように。
 現在のBBLの「春の祭典」がどのようなものか、観ていないからわからない。だが、ダンサーたちの肉体は確実に変わっていて、少なくとも「むちむちプリン」ではなくなっている。そうなった時に作品はどのように変わって見えるのだろう。

 自分は東バの群舞について、よく「群体」という言葉を使う。それはまさしく「群れ」だ。「集団」が個々の集まりであるなら、「群体」はそれ自体が一つのもの。もちろん作品や場面によって、強弱もあれば、あったりなかったりもあるし、どうにもうまくいってないという時もあるけれども。

 「春の祭典」はそれが比較的出やすい作品だ。先述の新藤氏の文章の「生々しいイメージ」から「原初的な生命そのもののぶつかり合い」へ、という指摘はまったくその通りだと思う。自分はよく、「ファンタジア」の「春の祭典」の流れを思い出す。何度も繰り返し見た映画だからすり込まれているというのもあるけれど、オーボエのあの最初のメロディに火山からたなびく一筋の煙を、リーダーの指し示す赤い平原を、「人」となる以前の異形の生命を。そして、女性たちのパートに、ポリプのような、あるいはウミユリのような原初の水底を。それはもはや「鹿の交尾」からは逸脱しているのだろうが。だがむしろ、ベジャール氏が見たかったのはその「逸脱」ではなかったのか、とも思う。「逸脱」というよりも「可能性」だろう。

 結果としてかどうかはともかく、ベジャール作品は、東バで踊られることによって分岐したといえるのかもしれない。BBLとは違う、もうひとつのカンパニーによるもうひとつの表現へ。そしてそれこそが実は、ベジャール氏が望んだことではないかと、自分にはそう思える。彼のような人が、単なるBBLのコピーを作りたいと思うはずがない。ダンサーによって自分の作品をカスタマイズしていったように、カンパニーによってもその持ち味を活かした方向性を示していっただろう。自分の直下のカンパニーと、まったく作風の違うもう一つのカンパニー。それぞれに合った作品、また同じ作品の異なる味付け。それこそが楽しみではなかっただろうか。

 自分は、東バはベジャールの「鏡」ではなかったか、と思う。もうひとつの自分(の作品)とその可能性を映し出す「鏡」。

 BBLもジルの体制に変わって、今後はジルを含めた振付家の新作に加え、埋もれていたベジャール作品の掘り起こしも行われるだろう。その中で「鏡」の果たす役割も変容していくのか否か。東バのレパートリーも今のところ、「新しい作品」(「ルーミー」のような)と「旧作の掘り起こし」(「詩人の恋」のような)の流れの中にあると思われるが、創造者と継承者の立場は当然にも違う。ジルにとって東バがどのような素材たり得るのか。どのような可能性を持つのか。いずれにせよそれは、まだ始まったばかりだ。

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