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【映画】戦場のフォトグラファー

戦場のフォトグラファー ジェームズ・ナクトウェイの世界

クリスチャン・フレイ監督/カラー/2001年度作品/スイス映画/35mm/原題「Warphotographer」

 不勉強なもので、ジェームズ・ナクトウェイという写真家を知らなかった。というより、海外の報道写真家といえば、キャパくらいしか知らないのだが。で、チラシの宣伝文によれば、ナクトウェイは「キャパの魂を受け継ぐ」とされているのだが、印象は全然違う。よかれ悪しかれ自己演出に長け、「すかしたキザ野郎」なキャパと、ある意味対極にいる人物だ。

 ジェームズ・ナクトウェイ、一九四八年生まれ、戦場カメラマン。そのドキュメンタリーである。

 この映画のために、ナクトウェイのカメラには上下に小さなカメラが取り付けられている。下のカメラはナクトウェイのカメラ越しに斜め上・後方に向かって、ファインダーを覗く彼を捉える。上のカメラは前を向き、ナクトウェイがレンズ越しに見ている光景を(実際にはナクトウェイの目線よりちょっと上なのだが)、私たちに提供する。戦場で取材するナクトウェイを取材するのに、周囲のクルーを気遣わずに、そしてわずらわされずにすむように作られた小型カメラなのだが、おかげでこの映画の何分の一かは「ナクトウェイが自分で撮った」ものになった。写真家のドキュメンタリーとしては、この上なく豪華である。コソボで、パレスチナ(ラマラ)で、ジャカルタで、私たちは彼の目に限りなく近い光景を共有し、シャッターを押す指を感じることができるのだから。

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【書籍】崩壊する映像神話

新藤健一著 ちくま文庫/2002.11/880円+税   

写真を撮る/見る/使う責任を振り返る

 本書は共同通信でカメラマンを長年務める著者が、自身の体験を交えつつ、写真や映像の持つ危うさを解明したものである。一九八六年の『映像のトリック』(講談社)に加筆したものなので、本論の部分はやや古い事例も多い。例えば有名な戦時中のプロパガンダ雑誌「FRONT」の航空機割増写真や「朝日新聞」のサンゴ事件、豊田商事、グリコ森永事件の「キツネ目の男」、越山会報の田中角栄リハビリ写真……。「いやあ、あったねえ、そういう事件」が満載である。それらを報道現場の目、写真を撮る側の目で解いていくのだから、実におもしろい。が、おもしろいとばかり言っていても紹介にならないので、いくつかの論点をあげておく。

 「ヤラセ」について。川口探検隊(懐かしい!)に代表されるドキュメント・バラエティなるものについては、「ヤラセじゃない」とどの程度の人が思っているかの方が問題だろうとは思う。むしろ「ヤラセだ」と思いながら楽しむ作風を日本中が身につけてしまったことが怖い。

 軍事写真について。偽の衛星写真の話がここでは取り上げられているが、個人的には非常におもしろかった。アフガン戦争でも北朝鮮核施設でも「衛星写真」なるものはずいぶん出ていたが、「衛星からここまで見えるんだ、すっげー」とついだまされてしまいがちな昨今、分解能などの知識は覚えておこう。

 そして、被害者の写真について。
 事故でも戦場でも、悲惨な状況を前に、シャッターを切るのかどうするのか。

「……サリドマイド児の写真なくしてサリドマイド禍は伝えられない。ケロイドや黒コゲの焼死体写真なくして広島、長崎の惨状は伝えられない。しかし、いたずらにセンセーショナルであることだけを狙った写真は、伝えることにどんな意味があるのか。……安易な方法でセンセーショナルな部分だけを狙えば、必ずその取材に規制がかかることになる」。著者は死体の写真を撮りたがったり、大勢の報道陣が殺到して混乱が生じたりする事態に対し、「いつまでも自ら首を絞めるようなバカげた取材を続けるならば、いずれ自らの表現の自由を放棄することにつながるのだ、ということを肝に銘じるべき時である」と、それらは実際に、メディア規制三法案にその隙を与えているのだ、と警鐘を鳴らす。

 その一方で、彼はロンゲラップ島で、核実験の後遺症として「奇形」を持って生まれた子どもを前に躊躇する。撮るべきか、撮ってはいけないのか。公表すべきなのか、否か。

 同様の思いは例えばイラクで劣化ウラン弾の後遺症の取材をしてきた人たちからも聞いた。そしてその写真を使って街頭情宣を行なう私たちもまた、その迷いを共有する。わかりやすい写真、人目を引く写真。情宣を行ないながらふと、自分たちはこの人たちの不幸を利用しているのか?との思いがよぎることもある。とにかくこの状況を見て、知って欲しい、止めるための何かをして欲しい、との思いで写真を掲げる。そうすることで、写されたこの人たちに、私たち自身がいくばくかの責任をとるのだ、と私は思う。ほかに方法も思いつかないのだから。「残酷な写真を出すと人が引いてしまう」とかいう話ではなくて。

 かつて写真やビデオというのは、有無を言わさぬ証拠だった。それがもはや証拠としての意味をなさなくなっていることを確認しつつ、そこから読みとれるだけのものを読みとる力をつけることもまた、情報に惑わされないために必要になったのだと、あらためて思う。

初出:「市民の意見30の会・東京ニュース」76号(03.2)

【補】古巣の団体にものすごく久しぶりに書いた原稿。ちなみに「東京ニュース」ではなく、「……・東京」までが団体名です(どーでもいいが)。「分解能」というのは、例えば「15cmの分解能」というと、15cmの物を1ドットとして認識できる能力のこと。だから「15cmの物まで判別可能」という表示は、「そこに15cmの物が存在することがわかりますよ」ということで、その物が何かまではわからないわけです。親本が書かれた86年の段階で、アメリカの偵察衛星の分解能は14cmと言われていたそうですが(無論正式には機密事項)、あれから20年近く経ってるから今はどうなんだか。ただ衛星写真については「そんなもの公表したら衛星の性能がわかっちゃうじゃん」ということで、表に出ないのではないかというのが著者の意見。自分でもphotoshopとか使って思うけど、写真ももはやそれ自体だけでなく「誰がどこでどのように撮ったか」まで考えないと、結構足元すくわれる気がします。最近はダンナのおかげで「どっからどー撮ったんだよ」ってのがずいぶん気になるようになりましたが。この手のトリック写真で一番「すげー」と思ったのは、別の本に出ていた文化大革命当時の「子どもが乗っても倒れない稲穂」ってヤツだな。無理ありすぎ。「ゾウが乗っても……」。(04.8)